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第1話 八品でも足りない

Autor: なつめ
last update Data de publicação: 2026-07-26 17:42:32

 午前四時三十七分。

 枕元の目覚まし時計が鳴るより先に、紬は目を開けた。

 まだ闇の残る天井に、街灯の光が障子の桟を薄く映している。隣では卓臣が背を向け、重い寝息を立てていた。酒と整髪料の混じった匂いが、冷えた寝室の空気に淀んでいる。

 時計の秒針が、四時三十八分へ移った。

 その瞬間に電子音が鳴り、紬は一度目の音が終わる前に止めた。

 誰かを起こせば、眠れなくなったと責められる。起こさなくても、朝食が一分遅れれば責められる。身体はもう、時計より先に怯えることを覚えていた。

 布団を抜けると、足裏から畳の冷たさが這い上がった。昨夜、岩蔵の身体を抱えて寝具を替えた時に痛めた腰が軋む。

 卓臣が寝返りを打った。

 紬は息を止めたまま、音を立てぬよう襖を閉めた。

 台所の灯りをつけると、白い蛍光灯が瞬き、流し台と紬の荒れた手を照らした。

 右手の親指には深いひびが入っている。絆創膏は昨夜の洗濯で剥がれた。新しいものを使うのは惜しく、紬は指先へ薄くガーゼを巻き、その上から使い古した指サックをはめた。

 米は、午前二時に洗って炊飯予約をしてある。

 蓋を開けると、白い湯気が乾いた頬を撫でた。紬は五つの弁当箱へ米を詰める。凌雅には多めに、茉白には浅く。颯真の嫌う梅干しは避け、湊人の海苔だけは小さな星に抜いた。

 冷蔵庫から、前夜に下ごしらえした食材を取り出す。焼き鮭。だし巻き卵。かぼちゃの煮物。ほうれん草の胡麻和え。きんぴらごぼう。冷ややっこ。漬物。味噌汁。

 三口の火で鮭を焼き、卵を巻き、味噌汁を温める。じゅ、と水分の弾ける音がして、昆布だしの匂いに鮭の脂が重なった。十人分の器が、狭い調理台から食卓の端まで埋まっていく。

 包丁を握る手に力を入れた時、ひび割れた親指へ大根の汁が染みた。

 紬は声を上げず、唇の裏を噛んだ。

 痛みは、口に出せば大きくなる。この家で覚えたことの一つだった。

 五時十二分、奥の部屋から壁を叩く音がした。

 どん。どん。どん。

 間を置かず、しゃがれた声が廊下を伝ってくる。

「まだかあ! 飯は!」

 紬は火を止め、粥と刻んだおかず、とろみをつけた味噌汁を盆へのせた。

 冷えた廊下を急ぐたび、盆の上で椀の蓋がかすかに鳴った。

 岩蔵の部屋には、薬と排泄物と古い畳の匂いが籠もっていた。九十二歳の岩蔵は、枯れ木のような腕を伸ばし、盆を睨みつけた。

「遅い」

「申し訳ありません。いま、お身体を起こしますね」

「触るな。泥棒」

 起こさなければ食べられない。紬が岩蔵の背へ腕を差し入れた瞬間、爪が手首を引っかいた。

 鋭い熱が走った。

 赤い筋が三本浮かび、血が滲んだ。

「ごめんなさい。驚かせましたね」

 岩蔵は鼻を鳴らし、差し出した匙を払った。粥が寝巻きと布団へ飛び散る。

「こんなもの食えるか」

 廊下に衣擦れの音がした。

 八重が寝間着の上へカーディガンを羽織り、腕を組んで立っていた。白髪をまとめた髪には乱れがない。最初から、紬が失敗するところを見に来たような顔だった。

「おじいちゃんに何したの」

「まだ何も。起きていただこうとしただけです」

「何もしてない人が、こんなに興奮するわけないでしょう。あんたは加減ってものを知らないんだから」

 八重は岩蔵の前では眉尻を下げ、猫をなだめるような声を出した。

「かわいそうに。乱暴にされたのね」

 岩蔵は答えず、口元を歪めた。

 紬の手首から落ちた血が、布団の白い襟へ小さな染みを作った。八重の視線がそこへ止まる。

「汚したじゃない。朝から洗濯物を増やして」

「……すみません」

「先に拭きなさいよ。おじいちゃんの布団に、あんたの汚い血をつけないで」

 紬は盆の脇に置いた介護用の布で、血を押さえた。その布もあとで洗わなければならないと思うと、強くは使えなかった。

 岩蔵が粥を食べ始めるまで見届けた時には、五時四十分を過ぎていた。

 台所へ戻ると、焦げた匂いがした。

 余熱の残る魚焼き器の中で、鮭の皮が黒くなりかけている。身は食べられる。皮だけを丁寧に外せば、たぶん気づかれない。紬は指先で焦げを取り除き、皿の向きを揃えた。

 六時を過ぎると、家は急に騒がしくなった。

 階段を踏み鳴らす音。洗面所の扉を奪い合う声。結莉が靴下がないと叫び、颯真が充電器を誰かが抜いたと怒鳴る。湊人は眠そうな顔のまま台所へ来たが、紬を見ると足を止めた。

「おはよう、湊人。顔を洗っておいで」

 紬が声をかけると、湊人の唇がわずかに動いた。

 けれど廊下の向こうから凌雅の足音が近づくと、幼い肩が強張った。

「分かってるし」

 わざと尖らせた声を残し、湊人は紬の横を通り過ぎた。その小さな手が、一瞬だけ紬のエプロンの裾に触れた。つかむことも、撫でることもなく、指の背で布をなぞるだけの触れ方だった。

 紬は振り返らなかった。

 振り返れば、その指までこの家に見つかってしまう気がした。

 食卓へ八品を並べ終える。

 焼き鮭、だし巻き卵、かぼちゃの煮物、ほうれん草の胡麻和え、きんぴら、冷ややっこ、漬物、味噌汁。

 湯気の立つ椀と小鉢が所狭しと並び、空いている場所は、新聞一枚を置くにも足りなかった。

 八重は自分の椅子を引き、座る前に食卓を見回した。

「またこれだけ?」

 紬の手が、味噌汁の椀を持ったまま止まった。

「申し訳ありません」

「朝だからって手を抜いていいわけじゃないでしょう。冷ややっこなんて、切って出しただけじゃない」

「薬味は、昨日いらないと……」

 八重の目が細くなった。

「何。口答え?」

「いいえ」

 紬は椀を置いた。陶器の底が卓上へ触れ、ことり、とひどく小さな音を立てた。

 卓臣が紺色のスーツ姿で上座へ座り、紬を見もせず新聞を開いた。

 繁政がその向かいへ座る時、背後を通った紬の腰へ手の甲を触れさせた。

 偶然を装うには、ゆっくりとした動きだった。

 紬が半歩離れると、繁政は薄く笑って味噌汁の蓋を取った。

 凌雅、茉白、颯真、結莉、湊人も席につく。

 八人が座り、椅子が一脚余る。

 食卓の隅にある、背もたれへ褪せた座布団を結びつけた椅子。岩蔵が食卓へ来られなくなって二年以上経つが、それは岩蔵の席と決まっていた。誰も座らず、誰にも片づけさせない。

 家には十人いる。

 椅子は九脚ある。

 けれど、紬のための一脚は、初めから一度もなかった。

 紬は全員の背後を動き、米をよそい、湯を足し、醤油を取り、落ちた箸を拾った。

「母さん、弁当」

 茉白が差し出した手へ、紬は桃色の弁当包みを渡した。

「今日は鮭と卵焼きと、かぼちゃの――」

「聞いてない」

 茉白はその場で蓋を開け、おかずを見下ろして眉を寄せた。

「また茶色い。こんなの友達に見られたら恥ずかしいんだけど」

「ミニトマトは、昨日あなたが嫌だって――」

「彩りって、トマト以外にもあるでしょ。普通は考えるじゃん」

 冷たい蓋の音が、ぱちんと響いた。

「コンビニで買えばいいじゃん」と颯真が笑った。「弁当撮って送ってよ。今日の貧乏飯って」

 スマートフォンのカメラが紬へ向いた。

 咄嗟に俯くと、長く伸びた前髪が頬へ落ちた。

「朝からくだらないことしてんなよ」

 凌雅が吐き捨て、紬は一瞬、止めてくれるのかと思った。

 だが凌雅は皿のだし巻き卵を箸でつまみ、大きく一口かじると、すぐに顔を歪めた。

「まず」

 黄色い卵が、紬の足元へ吐き出された。

 柔らかな欠片は一度床板へ跳ね、エプロンの裾に触れて止まった。

 食卓から、誰かの笑いが漏れた。

 紬は動けなかった。

 甘い方がいいと言われれば砂糖を増やし、甘すぎると言われれば減らした。今朝も、凌雅が以前褒めた店の味へ近づけたつもりだった。

 それでも、床にある。

「何ぼさっとしてんの。汚いだろ」

 卓臣の声が新聞の向こうから落ちた。

 紬は膝をつき、卵の欠片へ手を伸ばした。指先が震え、うまくつまめない。

「子どもの口にも合わないものを毎日出すなよ」

「……ごめんなさい」

「謝れば済むと思ってるから、いつまでたっても上達しないんだろ」

 卓臣は紬を見ず、新聞をめくりながら味噌汁を啜った。

 八重がかぼちゃを箸で割った。

「味が濃いねえ。こんなの毎日食べさせられたら病気になるわ」

 昨日は、薄くて食べた気がしないと言われた。

 紬の唇がわずかに開いたが、声は出なかった。

「お味噌汁、ちょっと薄めましょうか」

「これは薄いのよ。出汁をけちった味がする」

 卓臣が鼻で笑った。

「何を作らせても中途半端だな、お前は」

 お前。

 あんた。

 母さん。

 ねえ。

 この家へ嫁いで十八年、食卓で自分の名を聞いた記憶が、紬にはなかった。

 勤め先の名札には《御厨 紬》と印刷されている。けれど、そこに書かれた二文字は、制服を脱ぐ時に一緒に外すものになっていた。

 家では名前など必要ない。

 呼びつけるための役目さえ伝われば、それで済むのだ。

 食事が終わると、椅子の音が重なった。誰も食器を運ばず、茉白は弁当を鞄の底へ押し込む。湊人の皿だけがきれいになっていた。

 その湊人も、紬とは目を合わせず、兄たちの後を追った。

 残ったのは、卓上を覆う食器と、混じり合った食べ物の匂いだった。

 八重は椀の中身を一つの鍋へ戻した。

 噛みかけの鮭、崩れたかぼちゃ、冷ややっこ、冷えた米。そこへ味噌汁を注ぎ入れる。

 白い豆腐の角が濁った汁に沈み、鮭の皮が表面へ浮いた。

「あんたの朝飯」

 八重は流し台の下へ屈み、奥からステンレスの器を取り出した。

 縁に細かな傷がつき、底には洗っても消えない曇りがある。三年前に死んだ飼い犬が使っていたものだった。犬がいなくなったあと、八重は捨てるのはもったいないと言って、それを紬へあてがった。

 鍋の中身が、器へ落とされる。

 ぬるい汁が金属に当たり、びしゃびしゃと濁った音を立てた。

「洗い物を増やすんじゃないよ。箸もいらないだろ」

 八重は器を床へ置いた。

 流し台と食器棚の間、人が一人しゃがめば塞がる狭い場所だった。

 紬の喉が、ひくりと動いた。

「八重さん、出勤の時間があるので……残りは、お昼に」

「食べ物を粗末にする気?」

「そうではなくて」

「せっかく食べさせてやるのに、文句があるっていうのかい」

 背後で、卓臣が財布を開く音がした。

 紬が振り返ると、卓臣は鏡で髪を確かめながら、薄い白封筒を取り出した。

「今月分」

 投げられた封筒が、紬の肩に当たった。

 床へ落ちた拍子に口が開き、中の一万円札がわずかに覗く。

「足りないなんて言うなよ」

 卓臣の声には、昨夜の酒がまだ薄く絡んでいた。

「五万もあれば十分だろ。米も野菜も工夫すりゃどうにでもなる。お前、スーパーで働いてんだから、安いものくらい分かるよな」

 十人分の食費。洗剤。紙類。岩蔵の介護用品。子どもたちが突然必要だと言い出す学用品。八重が銘柄を指定する調味料。繁政の酒。

 紬の給料が入る通帳もカードも、卓臣が持ち、収支を見せたことはない。

 五万円は、与えられる生活費ではなかった。

 五万円以内で不足を出さず、不満を言わせず、家族を生かせという命令だった。

「学校でノートが必要だって言われていて。それと、おじいさんの紙おむつも、もう残りが――」

「だから?」

 卓臣が初めて紬を見た。

 冷たいというより、煩わしいものを見る目だった。

「お前のやりくりが下手なのを、俺のせいにするなよ」

 玄関から凌雅の声が飛ぶ。

「父さん、送ってって!」

「今行く」

 卓臣の声はたちまち明るくなった。

 紬の横を通り過ぎる時、上等な香水がふわりと鼻先を掠めた。家族には向けない、甘く華やかな香りだった。

 玄関の扉が開き、子どもたちの声と一緒に朝の冷気が流れ込む。卓臣は外へ出る間際、近所へ聞かせるような声で笑った。

「忘れ物すんなよ。母さんが困るだろ」

 車の扉が閉まる音がした。

 やがてエンジン音が遠ざかり、家の中へ重い静けさが戻った。

 紬は床に落ちた封筒を拾った。

 荒れた指で数える。一万円札が、五枚。

 それだけだった。

 封筒の内側から、小さな紙片が滑り落ちた。

 拾い上げると、昨夜の日付が印字されたカード利用票だった。店名は聞いたことのない横文字で、利用金額の欄には《四八、六〇〇円》とある。明け方に帰ってきた卓臣のスーツに染みついていた、酒と甘い香水の匂いが蘇った。

 紬が十人を一か月食べさせる金額と、ほとんど同じだった。

「何をぐずぐずしてるんだい」

 八重の声に、紬の肩が跳ねた。

 利用票を見ていたことには気づかなかったのか、八重はステンレスの器を顎で示した。

「冷めるでしょう」

 もう冷めている、と紬は思った。

 口にはしなかった。

 紙片をエプロンのポケットへ入れ、封筒を胸元へ抱える。そうして膝を折ると、薄いスカート越しに床の硬さと冷たさが骨へ伝わった。

 器の表面では、味噌汁の脂が薄い膜を張っている。噛みかけの鮭と潰れた豆腐と米粒が混ざり、犬の名が刻まれていた跡を覆っていた。

 箸はない。

 八重は腕を組んだまま見下ろしている。

 廊下の角に、登校したはずの湊人が立っていた。

 忘れ物を取りに戻ったのだろう。黄色い帽子をかぶり、ランドセルの肩紐を両手で握っている。紬と目が合うと、丸い瞳が揺れた。

 その唇が、かすかに開いた。

「おか――」

 呼びかけは、最後まで続かなかった。

 玄関の外から凌雅が「湊人、早くしろ!」と怒鳴った。

 湊人は怯えたように口を閉じ、紬から目を逸らした。小さな足音が廊下を駆け、玄関の扉が閉まる。

 八重が鼻を鳴らした。

「子どもを遅刻させるんじゃないよ」

 紬は何も答えなかった。

 ステンレスの器へ顔を近づける。冷えた味噌と魚の生臭さが、息をするたび肺の奥へ沈んだ。長い髪が垂れないよう耳へかけると、傷のある手首が蛍光灯の下へ晒された。

 五万円の封筒は、膝の脇に置いてある。

 その白い表には、宛名すらなかった。

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Comentários (1)
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小島昭美(まどか)
なんなの?人間扱いさえしない、普通の人ならとっくの昔に家出してるね、勝手にお前らで生活しろって思うよ、今どきこんな家庭あるのか?
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